ヨコタのそれはそれ、あれはあれ。

ヨコタの感じた日々のあれこれ

何かの一部に取り込まれるという感覚。

おかげさまで、どんな反応なのかはわかりませんが、ひと記事に対して毎回100人は見ていただいております。

ありがとう。


今日は5/5日
GWも、もう終わりを迎えている。


先日4月末、親が東京に遊びにくるというので待ち合わせをした。
皇居付近を見たいというので東京駅に降りた。

なんだかんだ東京駅に降りるのは初めて?(記憶にないだけかも)で、レトロ感のある駅は壮観だった。
会社のビルが建ち並んでいる中、中心で時代をポツンと置いたような佇まいは、写真映えと言って仕舞えば陳腐だが、"駅を見に行く"という行為も頷けるほどの美しさがある。

時はGWでやはりなのか普段の駅周辺を知らないけれども外国の観光客やなんやらで人が多かった。
駅のベンチで休息を取る人や、例にもれず駅の写真を撮ったりと雑多であった。

また皇居へ続く道は、散歩などの羽伸ばしにうってつけで、ランナーや老夫婦、とまあ多種な人達で賑わっていた。


駅をおり、雑多に溶け込んだ印象は

息がしづらい街

だった。


人口密度の話ではない。


先に述べたように駅の周りでは写真を撮る人が多くいて、皆一様にカメラのシャッターを切った。
観光として、思い出として(作品として取るという意味ではないということ)東京駅を撮るには皆やはり人の雑多も駅の一部として撮っていた。
センスは偏る。


人の雑多、街の賑わいをエキストラとして駅を映すことが東京駅たらしめるのかと思った。

息がしづらい

と感じたあの瞬間確かに自分は東京駅の一部にされていたのだろう。



引っ込み思案な目立ちたがり屋というめんどくさい自分は写真を撮られるなら俺を撮って欲しいと思う。


おそらく、あの日駅であの時間帯だけでも、街の人々がシャッターを100枚近く切った全ての東京駅に、自分という存在がすべからくエキストラになった。
それらを込みで完成した"東京駅"の写真に、隅っこで映る俺に誰が気を払っただろうか。

どうにもめんどくさい性分である。


駅を歩くたび、どこから聞こえるシャッター音が鳴るたびに、チョキチョキと自分のアイデンティティが影を切るようになくなり、駅の一部にされていく感覚を覚えた。


かといって辛い気持ちというわけでもないが。


パシャリ、チョキチョキ
パシャリ、チョキチョキ

こうして完成した東京駅にどんどん取り込まれていく。



レンズがもし人の目なら、駅に限らず、様々な場面で俺は人の器を持った環境の一部になっていないだろうか。
対面で話す相手はヨコタと喋っているだろうか。


サシ飲みをする俺を、歌う俺を、ギターを弾く俺を、ヨコタと認識している人は何人いるだろう。


パチリと瞼を閉じてシャッターを切るたびに、ハサミのチョキチョキという音がしないか。
杞憂に終わればいいと思う。

杞憂に終わらなければきっとヨコタの負けだ。