ヨコタのそれはそれ、あれはあれ。

ヨコタの感じた日々のあれこれ

曖昧さにかまけて。

男は言う
「きちんと定義がなされてないものがある。

定義した上で話さないとやっかいな時もあるし、その逆もある。
私たちってなんなの?と男に問う女は、その関係を定義したい。
一方の男は、なんなんだろうと返す。彼はこの関係をセフレと定義しない。
やっかいとめんどくさいの男女は往々にして見る。


優しさなんて得体の知れないもので、そこに下心があるかなんていちいち定義する者はいないように思える。

やがて、定義しないと不安な人間は物に頼るようになる。
幸福を金銭という尺度で測ったり
愛を物品で測ったり、実にキリがないように感じる。

幸福を感じればそれで幸福で、愛を感じればそれを愛とすればいい話なのに、物に依存しきった者はみな、1度物を通さないとその実態を掴めない。


しかしだからこそ人間は繁栄したという見方も出来る。ホモサピエンスとして現在は(過去を考えても)地球を我が物とし、それを制御しようという地位まで上り詰めた。
もはや物にすがる行動はDNAにまで刻まれたあるじ人間の生態とも言える。

即ちこの生態を悪いと言っているのではない。
感じているとすれば危機感である。
実態を持って尺度とすれば、多く尺度を持つ者とそうでない者に分かれる。
なけなしの尺度で、あるいは自分を、あるいは相手を、あるいは世界を測れば、と危惧する。
そうして絶え間なく過大評価や、過小評価され変わっていく世界、相手、自分をどの様に捉えればいいのか。
波の様に渦巻く世界を一体何を篝火として歩けばいいのかわからなくなる。
ふらふらと手探りで歩く誰かを、または胸を張って歩く誰かを、尺度を多く持つのものが、尺度を持っていないと、決めつけだと笑うだろう。
そういう彼らもまた笑われているのではないか。

ただただ、独り言として聞いてほしい。
俺はそうはなりたくないと言うだけだ。

幸福に実態があってたまるか、歩く道が整備されてたまるかと思う。
物を通して、一辺倒に幸福、非幸福と宣ってたまるかと空を睨むだけだ。」

一息ついて俺は言う。ここで言う男と俺の関係は自問自答だ。

世界を一つとして決めない方法はあるんじゃないの。円も実は多角形みたいに、尺度をいっぱい、それこそたくさん持ってあれもこれもみたいに。

男が返す。
「似たものは作れる。だけど、俺がしたいのは違う。尺度を全く持たない選択だ。

そうやって曖昧さにかまけて、結局何が何だかわからなくなるのはごめんだ。
曖昧なのは1つの暴力にすら感じる。」

曖昧さの暴力。と俺は返す。

その日から俺は傘の差し方を忘れてしまった。